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ダイエットの成功、リバウンド、離婚から悲喜こもごもイマサラ金銭管理にめざめたおかあさんのブログです。

【本の感想】実力も運のうち 能力主義は正義か? マイケル・サンデル ~真に正義にかなう共同体って何なのかを考える~

 読了しました!4月17日に購入して、途中で鄧小平に夢中になったり、ダイエットに忙しくて本を読む気力もない日があったりして。2か月以上かかってしまった。

 

本の内容を端的にまとめられるだけの能力がないのを自覚しているので。

私の感想にはすぎませんが、今の気分を残しておきます。

実力も運のうち 能力主義は正義か?

 

我がことばかりの感想になりますが、

結局、この手の哲学をかみ砕いて説明してくれる本を手に取ってしまうのは

自分の生きている世界との折り合いをつける理由の一端なりとも発見したいと思うから。

自分が不正義であると感じている「常識」がいかにして生成されるのかそこが紐解ければ、現状に決して満足はしないが「黙って我慢」すべきときなのか、「自らの立場のために声を上げる」べきときなのかを見極めるための材料。

どれほど「不正義」であると感じていても、機が熟していなければ各個撃破で粉砕されてしまうので、そこを何とか見極めたい。そう思っての読書です。

 

新たな階級社会を、真に正義にかなう共同体へと変えることはできるのか

 と問われても。

矮小な私は、この新たな階級社会のなかで、自分がどう生きるのか?を知る材料を探して(実際は決まってて走り続けている)この本を手に取った次第。

 

日本人で、無神論者の私は、結果平等よりは機会平等を望んで生きてきた。

機会平等を望み、その機会をうまく生かして得たものがすべて自分の手柄だとは思わないけれど、得られなかったものは自己責任だと強く思う節があって、そのあたりを少し楽にしてもらえました(最初のチャンス自体も与えらてていないことに対して、自分の能力のなさを痛感して反省するなんてありえないのでしんどい気持ちは手放してOKかな?ってね)。

 

実際、自分は門外漢でありたい、観察者でありたいと思うけれどどっぷりと実力主義にはまって生きているし。成功したら他人に感謝、失敗したら自己責任という常識が染みついている。

その常識が染みついているために、見下されていると感じたときに「自分の責任」「自分の失敗」「自分の至らなさ」を同時に感じてしまい、なんとも気分が悪いのだ。

すべてを相手のせいにできたら、見下されていても気にならない。もしくは度を越えれば怒りに変換される。自分が弱る必要はない。

 

 

 

 

私の生きている世界は人の能力をいかに金銭(サラリー)に変換できたかに重きを置いている。そして、その人の能力を判別するために、どこかで誰かが。時に、隣の席に座っているあの人が、日々、人の能力を線引きして「公平」に分配するためのルールを作っている。むしろ朝令暮改状態。

 

人の能力を評価し、線ひきするルールの作成にかかわることができる人は、それまでのルールでその階段を上ることに成功した人たちです。

なので、なんだか妙だな?と思っても、ルールが少しづつ変わっても基本的にはそのルール策定に一枚噛むことができる選ばれしものの都合がよいようにできている。

が、おかしいな?と思って疑問を呈してもこれはわが社(ときにわが国をわがチームをわが家を)を守るための秘策であるからして、そのわが社を強く大きくしてくれるに功績のある人々を評価するためのルールである。

要するにお手盛り感があるのだが、わが社を守るため、大きく強くするためというお題目を唱えながらのお手盛り状態。

 

成功している側が申し渡すルールで戦わねばならないのです。

世の中を正していくというのが目的であれば、ここは逃げてはいけないところ。

 

 

結局、悲しいかな個人レベルでは自分の目の前にあるルールに従い走り、戦う以外に方法がないのだけど。

広い目で、長い時間をかけて社会の「常識」をより良く変えていく。

そのためにはこうしたらどうかな?っていうサンデル教授からの提案があり、メッセージ。うけとりました。

 

 

 

私のようなサラリーマンとしては傷だらけの負け組だけではなく、いまのルールで勝利を収めている人々の何割かがこの考えに共感して、常識の空気が変わったら、潮目が変わったら、お金を右に左に動かしたり、下知だけをしている人たちが危険に身をさらして手を動かし続けている人たちの労働に対する敬意も価値(サラリー)も向上する世の中が来るでしょうか。あ~でも傷だらけの負け組以前にチャンス自体がもらえていないと感じる人々、感じることもできずただ、生きることのみに終始しする人々のことまで考えて「共通善」を醸成したうえで、さらに現実的なルールに落とし込むって・・・考えたら。私のノーミソでは星空を眺めるような気分になってきたわ。

 

 

もう、長年日本人をやっていると民主主義ってなんだったんだろうと見失いがちで。

だけど、ほんとうに民主主義をやるのなら、民主主義でよい社会を作りたいと願うなら。全国民が一つ一つの問題に対してこれはいいのか悪いのかを判断するための能力を身に着ける、情報を得るというまことにしんどい部分があって。

日々の生活がそこそこごはんが食べられて、楽しく暮らせているのであれば、そんなしんどいことは考えたくないと思うのが自分も含めての大衆。

その、めんどくさくて民主主義の義務をみんなが放置すればするほどに、あっちこっちで不正やずるをしてこずるく得をする輩がはびこる社会になるわけで。ひいては、民主主義の皮をかぶった独裁的な世界にどっぷり沈む(でも楽)という現状。話し合うべきことは話し合わず、テクノクラート的に裏で根回しで処理されて、センセーショナルでわかりやすい善悪(不倫とかね)ばかりを取り上げて時間を浪費。あほくさくなって興味を失う。

 

だれかが、理想を叫んで、怒りを思い出させてくれないと、世の中は変わらないものだと思う。本やSNSなどで、新しい考え方に共感を生んで、多数の人の心になんとはなしに新しい常識が備わって、それで少しづつ世の中が暮らしやすい方向にシフトしていけばいいのではないかと落ち着いて考えられる暮らしぶりができていることに感謝をする。とはいえ、考えることをやめてしまって、感謝感謝に終始してしまうと無知蒙昧に宗教的に突っ走り始めて道をあやまつので。

本を読んでたまにはこうやって考える。自らの安寧だけに終始してはいけない。

私はひしめき合って生きている、社会の一員で離れられない運命で。その中で、その集団で生きることの利益を多く享受して生きているのだからね。

 

 

ただし・・・矛盾というかなんだかちょっと居心地が悪いと感じているのは。

サンデル教授が感謝をささげまくっている人たちは民主主義を語るに「値する」人たちばかり。ご家族も優秀な方ばかり。その人たちの中でやっぱり民主主義のなんたるか。共通全のなんたるか。世界をよりよくするのはどうすればいいか。をいくら話し合って、結論を出しても、「テクノクラート的」「能力主義専制的」ではないとは言い切れないなぁと。

どれほどハーバードの優秀な学生と(もちろん能力主義の競争を勝ち抜いてきたエリートです)話し合ったところで、本当のところ、多くの労働者の声っていうのはサンデル教授には届いているのだろうか?と

最後の謝辞を読みながら考えた。

 

フィールドワークが入ってくる社会学者とは違って、サンデル教授は神っぽいな。ものすごい高い場所で高いところにいる人たちとだけ「広い視点」をもって思考を深めているイメージ(あくまでイメージ)。

結局、エリート層以外の人と対話をすることがあるのだろうか?

ルール無用の民主主義の何たるかを考えもしない、その有用性を理解しようともしない大多数のめんどくさがりで忙しい労働者に民主主義の何たるかを話して聞かせて理解してもらえるってことはあるのだろうか。

その労働者の価値を高めるためのルール作りを考えるのであれば。その人たちの生の姿は目に入っているのだろうか?

 

サンデル教授の話を聞きに来る人っていうのは、最初から「理解したい」という知識はなくても気持ちはすでにある人達だもんな。

究極の理想を言ってしまえば、理解したいと思っていない人にも理解させて、議論に参加させないといけないわけで。

 

理想郷すぎて。サンデル教授。きびし~。

先日読んだ鄧小平の全部お任せください感すごい。怒りも闇も呑み込んで、とりあえず中国の全国民にまずはごはんを食べさせようというお任せ感。独裁といわれようとなんといわれようと救われる人の数は多い。

政治家と学者の違いを感じるわ。

サンデル教授が語らっているのは衣食住の心配など一つもない心に余裕のある人々だけだもんな・・・って思わずにいられない。

 

 

結局、自分は変えられても、他人を変える、集団を変える、世界を変えるってホント大変。慌てると死人が出るから。死人が出ないようにゆっくりと変わっていくしかないね。

 

 

 本の感想は以上!

 



 

ところで、自己を顧みて。少しでも自分が正しいと感じられる行動をとれるようにとのドメスティックな覚書。 

 

普段から自分が「見下されている」と感じて会社員生活を送っています。

会社でそれなりの出世コースに乗った人達が、これほどまでに自身に満ち満ちて自分は偉い、自分はその立場に値している、自分は他と比べて多くを得るに値していると疑問なく思うことができるのか。

自ら手を汚して、自らの手を動かして、社会に必要不可欠であったり、その組織に必要不可欠な「仕事」(わが社ではすぐにそれを作業と呼びたがります。作業ばかりに身を投じると便利使いされて吸い取られて終わりです)をする人が軽く、ぞんざいに扱われすぎている。

 

15年、20年前には相当数のコネ採用やコネ出世が見受けられたが、それを防いでその悪影響を小さくするために、数々の能力を評価し、納得感のある人事制度を目指して人が入れ替わり、立場が入れ替わった先に・・・近年ひしひしと感じる差別感の源。

それが、能力主義で選ばれたという確固たる自信からくるエリート意識、差別感。だったのだなぁと。わかっていたようでわかっていなかったことをきれいに説明してもらえた。

 

とはいえ、私自身、そのエリート意識や差別感を「正義ではない」と感じつつも、自分自身の地位向上やサラリー向上のために、ルールにのっとり正々堂々と戦って生きている。そうすることが「正義」だとは思わないが、自分の地位を安泰にするためには自分の生きる世界のルールで走るしかない。

広い目でみると悲しい話ですけれども。

 

掃除やゴミの処理などを請け負ってくれている人たちが、自分の働くオフィスの壁一枚隔てたトイレ、階下のごみ集積所で汗を流し、ときに危険に身をさらして働いている姿を見るにつけ、オフィスでは「手を動かす仕事を嫌い、頭を使った人が勝ち残り、多きを得る」現状。実際に手を動かす作業はすべて派遣社員まかせで正社員はひたすらPCに向かって解析につぐ解析。

効率化で分業が進めば進む程に相手に対する理解は失われ、自分の得た地位にふさわしい差別感を身に着ける。

 

すべての人ではないにしろ、会話の節々に潜むその勝者の優越感が醸成する空気を吸い込んで、自分はそうならないように、と思いつつも、染まり切ってはいないか?と自らを問い直しました。

 



 

 マイケル・サンデルはけっこうたくさんの本が出ているけれど。

私個人としては2冊目。

1冊目は、トロッコ問題で有名(というより、今やトロッコ問題だけがSNSで駆け巡ってしまっていて、出典を認識していない人も多いだろうという)こちら。

記念すべき、私がKindleでお金をだして買った本の1冊目です。2013年4月29日

今でもたまにペラペラと見直す。正しいことをなすには痛みを引き受ける勇気と覚悟が必要だ。自分も自由。他人も自由ですべてを見逃し他人に作用しない生き方は、それはこのぎゅうぎゅう詰めの社会で生きている限り正義とはいいがたい。

これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

あ。でも。自分を守るためには。そこなんよね。

嫌われる勇気

 

 

過ぎたるは猶及ばざるが如し

究極の正解、絶対善なんてないし。その時代のふんわりとした共通善を見つけて生きていくしかね~か。(一周回って元の私じゃあないか!!!!!!)

どの時代のどのコミュニティ、どの民族にも当てはまる共通善なんてありえないもんなぁ。だからルールは時代に併せてかわらなあかんねんけど。結局のところルールを作るのは一握りの血統的であれ、能力的であれエリート層。それを流動化せねばって話だってところまでは理解した。

 

が実際どうすんのよになるとバグる。その程度の決めきれない私がまた露呈。

 

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