イマサラ金銭管理

ダイエットの成功、リバウンド、離婚から悲喜こもごもイマサラ金銭管理にめざめたおかあさんのブログです。

【本の感想】一九八四年[新訳版]

 

 読みました。

不朽の名作ってやつですね。

2009年の新訳版になっていて。むちゃくちゃ読みやすい。 

 不朽・・・とはいえ、執筆当時から70年が経過。価値観も人間も大きく変動。

冒頭からもう、夢中でした。

が、最後の最後。拷問シーンにきて、怖さをそれほど感じないでさらりと読んでしまえたのは。実際の拷問経験もない(であろう作者)の描写であることと。私自身が生まれてから今日までに摂取した小説や映画の拷問シーンの方がえげつないことこの上なかったからかもしれない。

 

 

しかし、真骨頂は、監視社会のなかで、びくびくしながらも自らを抑えきれずひとつづつタブーを犯していく主人公の心理描写が恐ろしく微に入り細に入り。その結果1人の人間が文字で明確に浮き彫りにされていく様が。

ああ。いい本読んだなぁという。読後感の悪さも含めて、ほんとにいい本です。

 

・・・・感想・・・ ・

 

作品が書かれた1940年代終盤どころか、作中の1984年をもはるかに過ぎ去った2020年。自分自身、齢50まであと数年というところでこれを読んで、

正直、この作中の世界が完全なる「ディストピア」だとは言い切れない現実を生きてるなぁと思う。

 

言語統制とか、監視社会とか・・・子どもの頃には恐ろしいモノ、絶対悪と教え込まれ思い込まされて育ったわけだけど。

民主主義、自由主義、資本主義なんだと信じ込まされて育ったこの日本が「そ~でもないなぁ」とひしひし感じる日常の中で。割と、この1984年の作中世界はうまい具合に社会体制が成り立っているんだと思わざるを得ない。

 

作中の1984年は、主人公のウィンストンのように生きるならディストピアではあるが、この世界をディストピアとは全く感じることなく生きている人々が大半なのだろうと容易に想像できてしまう。

作中のオセアニアを統べる党中枢とその手足となる人々がそれぞれ人口の2%と15%ということは。その他85%は情報を統制されつつ、物資も統制されつつ、決して望むような豊かな生活を思うがままにつかめるわけではないが、それでもある一定の自由を謳歌しつつ「生き物としての人間の人生」を全うできているのだろう。

 

たとえ、ウィンストンと同じ立場で生活をしている人であっても、現状に満足し、与えられる情報をすべて、疑問の余地なく信じ込むことができる「能力」を備えてさえいれば。。。生命の危険にさらされることはない。自己防衛的愚鈍さを先天的に装備できていれば。

 

常に与えられるがままの「真実」を真実と受け入れられる人にとっては何の苦もないユートピアであるという。さらに、党に属しているなんて、エリートですわな。

 

だがしかし、ただひたすら、主人公のウィンストンにとっては生きづらい。

人口の何%かは、彼のような思考をするがために苦しみもがき、最終的には「矯正」の憂き目をみる世界ではあるが、どれほど彼が不満を訴えようと、実は、社会全体をみると不満を抱えて、さらにはこの社会体制を打倒しなければと思い悩む人の数はそうそう多くないんだろうなぁと。感じる。

 

何よりも、人口の大多数を占める「労働者階級=プロール」には党の公式見解しか伝わらないし。教育そのもののレベルも落とされて、本も取りあげられ、党が安全だと感じる娯楽的なメディアしか与えられない。

知る機会がなければ、疑問を抱くことも、不満を抱くキッカケを得ることさえもなくて、ただ狭くてまぁ、あれやな。半径5メーターくらい?のことだけしか理解できないし。しないし、する気もないし。そして幸せ。

 

もしもね、現実にできたらね。そこまで、情報の捜査を国ができるなら。

それだけの大きな責任を持って、人口の98%までに真実は一切知らせることなく、自らの描くストーリー通りの真実を過去にまで遡って操作し、言語体系さえも国家体制の維持に都合のよいものに変換していく。

 

リアルタイムニュースの統制ということだけでなく「教育を与えない」という受け取りて側の感度を上げないという政策は

怖いが。その知的に無防備な状態で本当に国家がすべての人民の命を生活を守ってくれると信じられるならっていうディスだかユーだかどんどんこんぐらかってくるトピアです。

 

むしろ、国内の人口全体を飢えさせることなく、不満なく統治できるんだったら、やっぱウィンストンはいらない子でしかない?はたから見ればうまく回ってる国家なんじゃないの?

 

10代の私なら絶対に感じなかったであろう感想が(笑)

ディストピアディストピアとは言い切れない。

これはバットエンドだどはいいきれない。

 

大多数の人々が死の危険を感じることなく生きることができる社会だ。

 

もちろん、主人公目線ならバットエンドのディストピアだけれども。

社会全体としてはそれなりに収まっている「ように見える」。

 

もし、主人公目線のグッドエンドで党の社会体制を崩すことができても、次の社会体制を形作るまでの混沌で多くの人間が命を落とし、またお腹を空かせて生存競争を強いられるのは目に見えているし。

主人公自身、毎日のように塗り替えられる「真実」という名を歴史の改変に飽いて真実を追い求めているだけで、しっかり生きれてごはんが食べられているからな。かぁちゃんと妹がどうなったのかは知らないが。ウィンストンのような人間は、親分にはなれない。家長(笑)にはなれない。母も妹も守る気がない。生かす気がない。自分だけが生きようとし、自分が真実を知りたい、嘘を暴きたいだけで行動している。

たとえ、多くの闇を抱えていようと「党」はオセアニアという国の中でどれほど多くの人の口を賄っているのか。たとえ、一人一人が満足するわけじゃなくてもね。

恋人になったジュリアのことだって、ジュリアだから愛したわけでもなく。若くて魅力的な女性が自ら飛び込んできてくれるというとんでもない幸運に恵まれたからだけっていう風にしか思えないもんな。ま、それであ~ぱ~状態になってどんどん深みにはまるんだけどさ。

 

ジュリアも・・・主人公に都合のいい女性だなぁとしか思えない。自らびょ~んと飛び込んできた割に、危機感なくて「この男ヤバいぞ」センサーが働いてなくて、さらには尻軽さんなのかと思うと以外とウィンストンから絶対離れないで一蓮托生って。ちょっと気の毒な感じもしたなぁ。

 

どっちにしても、二人とも「二人」のことを考えてした行動でもなく、社会のことを考えてしたわけでもなく、ただ自らの欲望のままに自由を求めようとして痛い目にあったんだという風には思えたという。そういうことだなぁ。

それぞれがとことん自分勝手。自分のことしか考えていない。広い目で社会をよくしようとかそういう意味で体制を批判しているわけでは全くないという悲しみ。

 

 

 

 

 

自由にはあこがれるけれど、自由は厳しいものだ。

自分一人が自由になることを望むならそれを止める人がいないに越したことはないが、自分が「自由」になりたいからといって、1億人の人間、10億人の人間を道連れに自由という名の混沌の社会への移行を望むというのはやっぱり間違っているという感覚がある。

 

もし、私がウィンストンの立場に立たされたとして、おそらく。

ウィンストンのようにぐだぐだぐだぐだと考えちゃうタイプなのは間違いない。

与えられた真実を丸のみしてにっこり笑える人間ではない。自己防衛的愚鈍。

欲しいな!その能力。できれば先天的に備えたい!!!!!!

そんな人間になれたらどれほどこの毎日がシンプルで幸せだろうと思わざるを得ない。

 

それか逆に、世の中を変えて皆をより幸せにできるほどの知性を備えられたら?

多分、そんなスーパーヒーローは辛いだろうね。

 

 

私の勝手、私の自由に生きる余地は欲しいし、それを望めばいつでもその自由な世界に飛び込めるだけの余地は欲しい。

が、、、やっぱりなぁ。周囲の人、ひいては日本中、世界中の人を私と同じように自由にしたい!とは思わないんだよな。

 

実際、自由でない方が幸せな人の方が多い。圧倒的。

事実、私自身も私自身の口だけではなく、息子の口も食べさせていかなければならない間は自由でない代償として今日の生活の糧を手に入れているわけなのだから。

 

一昨日投函されたアベノマスクにいらいらしつつも、なんとかごはんが食べられる立場にいるから日々の些細な疑問や見え透いた嘘にも白々しいと思いながらもやり過ごす方を選ぶわけです。

 

 

 

とはいえ、耐えられるからといって、耐えすぎると耐えることこそが次の世代にとっての悪になるという。

 

 

丁度1984を読み始めたあたりで、アメリカのミネアポリスの騒ぎが始まって、いろいろ考えて、キング牧師なんかにたどりついてしまって。

 

 悪を仕方ないと受け入れる人は、悪の一部となる。
悪に抵抗しない人は、実は悪に協力しているのだ。

 

そして最後に!主人公のウィンストンは自殺!あれはやっぱ自殺やな。うん。そうだ。

死のうと思ってした自殺ではなくて、ハイウェイを300kmで飛ばした挙句に激突死とか、薬のやり過ぎでハイになってそのまま死亡的な自殺です。

恋愛に浮かれすぎるってやっぱろくなことないわぁ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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