イマサラ金銭管理

ダイエットの成功、リバウンド、離婚から悲喜こもごもイマサラ金銭管理にめざめたおかあさんのブログです。

親戚の集まりが嫌いな理由

他愛ない日記です。

 

田舎に行きました。

3年ぶり。

いつも通り古びていた。

 

初夏にコロナ状況が落ち着いていたあたりで、父母には一度大阪で出会っていたのだけれど。

 

その時は、久々に、都会で周りに併せてうまく身を処せない雰囲気の二人を見ていると、ものすごく年を取ったなと思っていた。

当たり前だと思っている改札の通過、エレベーターの乗り降り、お会計その他もろもろまわりのスピードに合わせて動けずまごまごしている感じが年齢を感じさせた。

 

でも、自宅で落ち着いた状態で姿を見たら、元気そうで、3年前のコロナ以前とそう変わった雰囲気もなかった。

 

 

が・・・話せば話し込む程に、この3年で、その感覚や話している内容等がどうにもこうにも年よりじみて心もとないと感じざるを得ない。

私の注意やアドバイス聞く耳を持たないことも多く・・・やっぱり本物の老人になっていくんだなぁ・・・と。

 

別の用事があったから、の帰省ではあったけれど。

 

 

子どもの頃から、父は上から押さえつけるような発言も多く、どうにもこうにもぶつかりまくった記憶も多いのだけれど。

口論になった時には「絶対に譲れない!認められない!」と強情を張りまくるわりに、次に出会った時にはすっかり考えを変えていて、むしろ私が主張していたことを自ら主張して、率先してやっているな~と感じる場面も多く。その場でどれほど強情を張っていても、「変われる、変わる必要があるのであれば変える」ことをしようと努力する人だと思っている。

なので、絶対に伝えたいことは口論になったとしても、伝え続けていればいずれは理解してくれるし、表面上いい顔はしないけれど、「わかってくれる」人である。

ただ、老人になり、自分の考えの及ばないような価値観に出会った時の柔軟性が目に見えるように失われていくので・・・という観測。

 

しかし。

母は・・・。歳をとるにつけ母の方が大変かもしれない。

自分の価値観に合わないもの、理解できないものを汚いものを見るかのようにして、まったく取り入れようとはしない、見聞きする気がない。

価値観にさえ合えば、どこまでも素直で従順なのだけれど、それは「ダメなモノ」「それはイケナイモノ」と思い込んでしまうと、会話の端に出るだけでも拒否反応を示してヒスってしまったり、席を外してしまったり。話を聞かない。

 

別に、昨日は難しい話をしに行ったわけでも、口論を吹っかけに行ったわけでもないのだけれど、世間話をしているだけで、年を経るにつれどんどん私と話がかみ合わない。

ごはんがおいしいねとか、お菓子がおいしいねとか、お花がきれいだね。

といった会話しかスムーズに進まない。

 

親子間でそれ以上の話をする必要があるのかと言われたらよくわからんが。

お互いに迷惑をかけることなく、人生のおしまいに向かって家族としてそれなりにもめることなく、トラブルに巻き込まれることなく暮らしていこうと思ったら、ある程度の情報交換は必要だと感じているのだけれど。

 

話にならない。

 

2018年にあまりに人の話を聞かず、私の回答を無視して、私が根負けするまで何度も電話で話を蒸し返してくるということが繰り返されて。それ以来、ほとんど電話をせず、テキストでのみやり取りするように心がけている非常につめたい娘さんなのです。

plaza.rakuten.co.jp

 

けれど。久々に数時間しゃべってみて。

お花がきれいね。ケーキがおいしいね以上の会話をすると、まるで私が汚れたもののようにヒスっているのを感じるので辛い。

 

・・・

私、田舎に行って両親に会うのが嫌だと思ってはいないのだけれど。

親戚が集まる場に行きたくない気持ちがすごく強いのです。

 

遠い日。昭和の頃。おじさんおばさん、いとこが一度に集まるお盆の頃。

おばさんが里帰り出産をされたころの恨み言を聞かされて育っていて。

ずっと、母が可哀そうだと思っていたのですよね。

そう思って育ってきた。

 

だから、そこそこものごころが付くようになってからは、家に人が集まるときには母の負担を軽くするために、母の負担を軽くするようにと思って、人が集まったがために増える家事については気を使って身を処してきた(まぁ、手伝いですよね~)。

 

そうする間に大人になって。

おじさんおばさん家族が来るのも一斉ではないし、いとこもついてこないし、泊まりもなくなってきて、大人数のごはんの支度やひどい時には洗濯もさせられていたようだけれど、そういうお世話をする場面ってほぼなくなってきたのだけれど。

 

今度は私たちきょうだいが盆暮れ正月に帰る段になると、盆暮れ正月に「あつまろうあるまろう」とうるさい。

集まるのはいいのだけれど、母はうれしいらしく、ひたすら働きまくって全く座らない。せっかく集まっている皆がのんびりと会話をしていてもほとんど参加せず皆の世話に明け暮れる。

母が働いていると弟の嫁たちは落ち着かずひたすら動く。

そうなると、そこで私が一人だらけていたらひどい小姑みたいな気がして自分も落ち着かず・・・意味もなく女性陣が全員座らず、ずっとやる必要もない家事を探して動き回っているような状態が・・・

 

嫌いで、集まりたくない。

 

おまけに、皆で皆でと時期を合わせて帰ったら、おとうとの友だちや家族まで呼び寄せて、弟の友だちの嫁の食事の支度を何故私が?!?!?!?!?!?!

 

強制されるわけでもないが、それを完全に無視したところで、つぎは私がくつろぐ場所がないという盆暮れ正月。

 

一人でふらっと田舎へ行けば、父も母も落ち着いて座っていて、私もごろごろしながら積る話をしたりもできるのに。

集まるとろくなことがない。

 

だが、母は、そんなわちゃわちゃが楽しいと言ってはばからない。

「どれだけ人がたくさん来ても弟のおよめちゃんたちはちゃんと私を手伝ってくれて、皆で用事を片づければ一瞬で終わるもの!」と声高らか。

 

・・・食事なんかコンビニ飯でも惣菜でもいいし、手作りにこだわらなくてもいいし。外へ食べに行ったってかまわないのに。母の手作り信仰が収まらないので、親戚があつまると朝昼夜と大人数になればなるほどごはんの支度をしているだけで時間がどんどん費やされてしまう。

何のために集まるの?

 

旧態依然とした価値観から抜け出せないから

父と弟たちが語らっている場におよめさんたちが参加しているとご機嫌が悪いし。

(私は構わないっていうところがダブスタでキモイのよね。)

 

私としても、家族と親せきだけの間は我慢しても、弟の友だちの家族の世話なんてまっぴらごめんだし(向こうにしたって、母親が無理にというからついてきてるだけだと思うけれどね)。そうこうしている大混乱のさなか。

小さい息子さんのごはんがなかったり、小さい息子さんが食べられないものばかりを食卓に並べられたり(もちろん、母である私がなんだか適当にでっち上げてやり過ごすわけだけれど)するのを見ると切なかったことを思い出す。

 

 

 

若い頃から、なんとか母を座らせよう、おさんどんをやめさせようと努力はしたつもりなんだけれど、おさんどんをすること自体が自分のアイデンティティだと感じているらしく、だれも望んでいないから全部やめてしまおうと提案すると、

 

むっちゃくちゃ怒り出して

むっちゃくちゃ嫌われる(笑)

 

曰く

「およめちゃんたちはみんな私と一緒に働いてくれるのに!」

 

私からすると母が無理に働かせているようにしかみえないし。

申し訳ないのでやめさせたいのだけれど。

 

見るのが嫌で

集まるのが嫌なのです。

 

極端に言えば、菓子パンをかじりながらでも皆で語り合えたらそれが集まる理由じゃないのと思うのだけど。手作りの凝った料理をするためにコミュニケーションの機会を犠牲にする意味が理解できない。コンビニ飯でいいじゃないですか。

年に数日集まった時の栄養バランス?そんなんどっちでもいいやん。

 

昨日もまた嫌われたわ(笑)

強情で人の心がない嫌な娘の独り言でした。

手作り飯=愛って誰が決めたの?!

 

ま、繰り言ですね。いつも同じことでストレスを感じている。

感謝がないわけでもない。愛着がないわけでもない。でも、価値観のすり合わせがまったくできない。

母親との関係をストレスのない関係に昇華させたい。 - イマサラ金銭管理

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